本を読みました。今日は本のお話です
「魚だって考える」(築地書館)
広島大学「こころの生物学」研究室奮闘記、吉田将之先生の本です
吉田先生の研究室は、生物生産学部(農学部)にあります。ひと昔前は、いわゆる”理系”と分類される分野では、動物の「こころ」を俎上に載せることはタブーでした
それが、動物の「こころ」を正面きってやっている”理系”の研究室がある!
動物の心の働きを生物学的に研究する「バイオサイコロジー(生物心理学)」という分野なのだそうです(行動神経科学とも言います)
わくわくどきどきしました
こういう時代がきているのかと、飛び上がって、ひゃっほーいって感じです
”理系”と呼ばれる学問分野は自然科学にあたります。自然科学は実証できることに厳密です
これまで長い間、学問の世界では、動物に心はない、あるのは刺激に対する反応の連鎖である、とするのが主流の考えでした。それはなぜかというと、動物の心を検証する方法がまだ見つかっておらず、行動を反応で説明することは検証可能だからということです
同時にその背後にある動物にまつわる「空気感」も無視できないと思います。さかのぼること400年前、デカルトが動物は機械であるという”免罪符”を人類に与えました。もともと西洋では宗教的に動物に人間と同じような心があることは許容しにくかったし、また、動物には心がないと考えることで人々は罪悪感を軽くすることができました。その考えはスティグマのように人類の心に浸透し、それを自然科学の現段階での限界が後押しして、動物に心はないという「空気」が澱のように沈殿していったのでしょう
実証が求められる自然科学にあって、心を扱うこと自体が困難なうえに、その対象がヒトではなく動物であるという2重苦…
「いやあるだろう」というもやもやしたものを抱えながら、長年私も、自然科学界にあって動物の「こころ」の問題はパンドラの箱であろうという認識でした
それが…
吉田先生は「サカナにはサカナなりの、ヒトにはヒトなりの心がある」と明言されます。がつん!といきなり頭をパンチされました。さらには、サカナとヒトが「進化的に共通の祖先をもっている以上、基本的な、かつとても重要な部分で、心のしくみを共有しているのだ」とこられます(進化論が受け入れられなかったように宗教的にアウトだったことが想像されますね)。
きてるきてる!!
今、テレビのような公の場でも、研究者や獣医師が犬に心があることを前提として話しているのを耳にするようになりました。犬の心の専門外来もあるようです。いまではもう当たり前になったのかもしれませんが、少し前の状況を考えたら、動物の心の問題は今、大きな大きな潮流の変化をむかえていると肌身に感じます
日本の”理系”分野に足を置いて、動物の心を研究し、市民権を得るその歩みは、決して決して簡単なことではなかったと思います。どれだけの工夫と根気と情熱が必要だっただろうかと。
大きな壁を前に、あきらめないで続けてきた人たちが、困難な道を信念という矛で地道に掘り進めて、やっと現在地にたどりついたというわけです
吉田先生は言います。研究は人間に寄与されるべきものであるのだけれど、研究者の多くが、動物そのものにも並々ならぬ愛と興味をもっている。それを否定することは面白くないし、研究の邪魔にならないじゃないかと。そしてまたこうも言います。今はまだ実証できない動物の「こころ」を否定するあり方には「満足」できない、と。それはまさに「イヌは何を考えているのか」の著者グレゴリー・バーンズさんの熱い思いにも重なります(興味のある方は2021.7.6の投稿ご参照ください)
他にも多くの動物の心を研究する研究者が、心の仕組みの解明が物の幸福につながると思い、研究を続けていると言います
気候変動や広がる格差。困難な状況をむかえる中、技術革新によって産業革命を超える転換点に否応なく人類は置かれています。動物にも心があることを実証できれば、累積される課題の中でおいていかれがちな動物の優先順位が上がることになるでしょう。また、これからAIが動物の心を翻訳するなんてことになるかもしれません。もしそれが安易に広まれば、AIが翻訳した動物の「ことば」なるものは悪用されるリスクにさらされます。だから動物の心を「生物学」の見地から解明することは、これからの動物を守る盾と次の世界をひらく鍵になります
「魚だって考える」、この本は研究室で学生と研究に取り組む様子を通して、魚の知覚や心の仕組みの現在地がわかりやすく書かれています。研究者のロックで熱い思いと優しさであふれた本でした
吉田先生は最後に私たちに呼びかけます
どのような仮説を立て検証していけばいいのか、「良いアイディアをおもちではないですか」
一緒に考えていきたいですね