菜の花を歩いていたら、山村暮鳥のこんな詩を思い出した。
(以下引用)
山村暮鳥
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな
そうかもね、マーベリック。
そう言って、目の前いちめんに広がる菜の花畑を見た。
連続する大地。
どこまでも続く、菜の花畑。
今見ているこの世界の一部分を切り取って言葉にすることは、とても勇気がいる。
それを、「一面の菜の花」と、一行言えば、伝わるのだろうか。
いつのときも、世界は連続している、切り取ることのできないアナログだ。
言葉は、その、連続した世界から、言いたいことを抽出し、余計なものを切り捨てて、あなたに伝える記号として存在する。
言葉。記号。抽出と捨象。
そうして世界を切り取り、デジタル化された世界に生きている私たちが、ふと、目の前の連続した菜の花畑を見て、はっと気づく。
私たちの心も、世界も、連続のあるアナログだ。
デジタルは、そんなアナログを土壌にして、生まれている。
言葉のそのむこうには、いつも、その人の、連続した世界が広がっている。
そうですね、マーベリック。
切り取られた世界の、その背後の広がりを、忘れたらいけないんだよね。
この空気感。におい。広がり。人々の思いと…生き物の息遣い。
だからかな。暮鳥は、言葉が、道具としてはあまりに窮屈に感じたから、あんなに繰り返したのかな。
わすれてはいけないんだね。
言葉や映像というデジタルな世界で、この、私たちひとりひとりがつながっている、アナログの世界の存在を。
いちめんのなのはな、いちめんのなのはな、まべのはなうた、まべのはなうた、まべのはな、まべのはな、そこにいちめんのはな、ひろがりつづけるまべさんぽ